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思い出のサザエさん

ブログを始めた頃の過去記事です。読まれた形跡が殆ど無いので、再掲します。

---ここから過去記事再掲---

DPLが大学の助手に採用されたばかりの頃のことです.まだ愛妻と出会う前の寂しい独身男のDPLは,大学の近所の大衆中華料理屋に一人で食事に行きました.注文した中華丼の大盛りが出てくる間,時間を持て余したDPLは,新聞・雑誌に混じって店の棚にあった一冊の汚い本を何気なく手にしました.それは,姉妹社から出ていた単行本「サザエさん」の初期の一冊でした.

「サザエさん」はテレビアニメの長寿番組として多くの人々に知られていますが,原作は新聞連載の四コマ漫画です(これも周知の事実ですね).最初は福岡の地元紙「夕刊フクニチ」に連載され,その後,舞台を全国紙の「朝日新聞」に移しました.姉妹社版の「サザエさん」は主としてこの新聞連載の四コマ漫画版「サザエさん」を集成したものです(全68巻!).

DPLは,手にした「サザエさん」(第何巻かは記憶にありません)のある頁の背景に描かれている事物に目が釘付けになったのです.そこには,非電気式の冷蔵庫,すなわち,氷屋で購入した氷の塊を箱に入れることで,箱の中のものを冷やすという極めて原始的なシステムによる冷蔵庫が,ごく普通の日常生活で用いられる道具として描かれていました.「これは面白い!」.DPLはこの時,遅ればせながら四コマ漫画版の「サザエさん」の別の楽しみ方を知ったのでした.

四コマ漫画版「サザエさん」の連載は,1946年4月に遡ります.以降,中断もありましたが,1974年2月まで連載は続きます(文庫版第45巻の巻末年譜による).要するに,終戦直後から,高度経済成長期が終焉を迎えた頃までの期間が舞台になっており,この間の一般庶民(マスオさんは大卒サラリーマンですから中流家庭と言った方がよいかも知れませんが)の生活様式の変遷を追うことができるのです.

これは,別にDPLだけでなく多くの人が気付いていたと思います.その後,誰かが同じようなことを書いているのを目にし,我が意を得たりと思った記憶がDPLにはあります.さらに「サザエさん」をテクストに見立て大真面目に文学研究の手法で研究しようとする「サザエさん学」(東京サザエさん学会「磯野家の謎」で一躍有名になりました.この本については,ゆうむはじめ氏の批判がすぐに出版されましたが,学問的遊びと言うものがわからない無粋な批判だなとシラケた記憶があります)も提唱されました.このように,「サザエさん」は,いろいろな意味で我々の知的好奇心を刺激してやまないようです.

DPLは,すぐに「サザエさん」全巻が欲しくなりましたが,全部で68巻もありますし,当時の時点で新刊で全巻を入手するのは不可能であったと記憶します(1冊だけ古本屋でたまたま見つけて購入しました.ぼろぼろなのに結構高かった記憶が).しかし,それからしばらくして,幸運なことに朝日新聞社によって「サザエさん」の文庫化(全45巻)が企画され,1994年の秋頃から月2冊のペースで刊行されることになりました(姉妹社版の全編が収録されているわけではないところが残念ですが).DPLは月1回の刊行日を首を長くして待って即日購入し,結局配本完了時には全45巻が書棚に揃っていました.

正直,「サザエさん」の話自体はそれほど面白いとは思いませんが(ごめんなさい.多分,好みの問題です.ちなみに,DPLの四コマ漫画の好みは相原コージ「コージ苑」,吉田戦車「伝染るんです」などです),話そのものよりもやはりDPLには背景の事物そのものが興味深く,それだけで「サザエさん」全巻を保有する価値があると思います.以後,文庫版「サザエさん」全45巻は,戦後昭和史の副読本としてDPLの座右に鎮座することになりました.今でもDPLの自宅の書斎の一番手に取り易い位置に「サザエさん」は並んでいます.

ところで,これはよく知られていることですが,時が経過し時代が移り変わってもサザエさん一家は殆ど年をとりません(タラちゃんは微妙に加齢しているように見えますが).この「サザエさん」の影響かどうかわかりませんが(あるいは職業上,毎年同じ年格好の学生さんを相手にしているせいかも知れませんが),子供のいないDPLには,余所の家の子供はサザエさん一家の子供達のように年をとらない存在であるような錯覚があります.20年前に子供が小学生だった知人の家には,今でもその子供が小学生のままでいるような気がします.久しぶりに知人の子供に会うと,「あなた誰?あの○○ちゃんは一体どこへ行ってしまった?」と頭がクラクラすることが度々あります(知人の奥様に関しましても,失礼ながら動揺してしまう場合が少なくありません).

ここで,愛妻の話になりますが,実は彼女の容姿は10代の頃からほとんど変化がないのです(DPLは20代からの彼女しか知りませんので写真によります.誇張ではありません).愛妻は,サザエさんのように老け顔(サザエさんが老け顔かどうかは主観の問題ですが)というわけでもなく(老け顔の人は老けません),可憐な乙女顔です.昔の写真を凝視し,現状と比較してみるのですが,肉眼では加齢の跡が殆ど確認できません.愛妻は,未だに見知らぬ人から「お嬢さん」と呼ばれることが頻繁にあり,それはそれで結構なことですが,縁談まで持ち込まれてしまうことも少なくありません.これは夫として喜ぶべきこと(?)なのでしょうね・・・.

今日ご紹介した本
長谷川町子著「サザエさん(文庫版全45巻)」(朝日新聞社,1994年)


---再掲ここまで---

長いなあ~。これじゃ読まれないよね。
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柏祐賢『農学原論』

「本棚を見ればその人がわかる」と何かに書かれているのを読んで、改めて自分を知ろうと思い、自分の本棚を眺めてみました(しかし、見れば見るほど、我ながらわけのわからない本棚だなあ。頭の中味が思いやられます・・・)。

一応,経済学の本が多いことは多いのですが、その隅っこにひっそりと佇む柏祐賢『農学原論』(養賢堂、1962年)が目にとまりました。

同書は、DPLが生まれて初めて読んだ専門書です。458ページある大著ですが、新古典派の経済学に目覚める前の農学部1年生のときに読みました(愛妻と出会うはるか昔の話)。

著者の柏氏は農業経済学者で、京大教授(農学原論講座の初代教授)を務められたあと、京都産業大学の学長と理事長を長く務めておられた方です。

私は全然世代が違いますので、教わったことはおろか面識もありませんが、何となく偉い先生なんだと思い、タイトルの厳めしさもあり、真っ当な農学徒になることを目指していた若きDPLは、最初にこの本を手にしたのでありました。

その当時に十分理解できていたのかは、今となってはわかりませんが、とにかく大学1年生としては、「1冊の専門書を最初から最後まで読み通した」ということで満足してしまいました。

しかしながら、この書物から学んだ農業の特質に関する議論や農学の科学的特質に関する議論は、今もDPLに影響を与え続けているような気がします。若い頃の読書は大事ですね。

この本を改めて引っ張り出して、眺めている内にいろいろな記憶が蘇ってきました。しばし、感傷にふけることにします。

深夜放送の思い出

今年は,愛妻もDPLも花粉にまだ本格的にやられていません.有り難いことに少し感じる程度に留まっています.今年は,昨年よりも花粉の飛散量がだいぶ少ないように感じます.でも油断してはいけませんね.

さて,昨日はラジオの深夜放送に少しだけ言及しました.少年DPLは土曜日は夜更かししていましたので,この日だけは深夜放送(の入り口)を聴いていました.でも,そのうち,起きていられなくなって寝てしまうというパタンでした.

少年DPLがよく聴いていたのは「鶴光のオールナイトニッポン」です.多分今も変わらない(最近聴いていないので想像)オープニング曲「Bitter Sweet Samba」が聞こえてきますとワクワクしたものです.

「せんだみつおの足かけ二日大進撃」を23時から聴き始め,1時からの「鶴光のオールナイトニッポン」を30分ほど聴いてダウンというパタンだったと思います.笑福亭鶴光のDJは,当時とても人気がありました.ただ,大人向けの話の内容が,少年DPLにはよく理解できませんでしたが(「妙にネチッコイ喋り方をする人だなあ」とも思っていました).

一寸調べてみましたら,「足かけ二日大進撃」は1980年,「鶴光のオールナイトニッポン」は1985年に終了しているのですね(今の大学生が生まれる遥か前だ!).もう随分昔なんだなあ.

BCL

今日の話題は,「BCL」です.1970年代に少年時代を過ごされた方は,流行したので覚えておられることでしょう."Broadcasting Listener"の略ですね.

直訳すれば「放送聴取者」ですが,主に外国の短波放送の受信を趣味とする人々のことを指します.さらに,受信環境と受信状況についてのレポートを放送局に送ると,「ベリカード」と呼ばれる受信確認証が送付されますが,それを集めるという収集趣味も付随していました.

少年DPLが「電子ブロック」の次にはまったのが,実はこの「BCL」です.当時はソニーと松下電器(現パナソニック)のBCL向け専用ラジオが人気を二分していました.DPLはソニーの「スカイセンサー5900」を買って貰いました.

松下の「クーガー1150」と「スカイセンサー5800」のどちらにしようか迷った記憶があります.前者はジャイロアンテナが付いており中波に強かったのと,後者がカバーしていないトロピカルバンドをカバーしていましたので,そこが魅力でした.しかし,「スカイセンサー5800」の後継機「5900」が華々しく登場して,結局これを購入しました.

「スカイセンサー5900」はスプレッドダイアルというものが付いており,内蔵のクリスタルマーカーと連動させて,10kHz単位で周波数を直読出来,「待ち受け受信」が可能でした.この部分は,かなり魅力的でした.

これで,世界の短波放送を聴きまくりました.「スカイセンサー」は格好良いので,これを操作する自分が偉くなったような錯覚に陥りました.「自分はBCLだ」なんて威張っていましたが,何のことはない,ラジオのリスナーと言っているのに過ぎず,今から思えば顔が赤くなるような話です.

それだけの話ですが,「天の邪鬼」のDPLも少年時代は「流行」に乗ってしまったわけで,恥ずかしいことこの上ないのであります.

ちなみに,「スカイセンサー5900」,大学院の博士課程の時代まで持っていました.研究室の自分の机の上において,夜勉強しながらイヤホンで深夜放送を聴くのに使っていました(典型的「ながら族」でしたから).就職が決まって研究室を出て行くときに,後輩にあげてしまいましたが,今から考えると惜しいことをしたなあ.

愛妻もDPLもテレビを視ないことは,何回も書いていますが,ラジオは時々聴きます.狭い意味でのラジオ放送とは違いますが,iTunesで"SMOOTHJAZZ.COM"を聴きながら書斎仕事をしたりします.

また,前任校時代は,若者向けの深夜放送を毎日聴いていました(JFN系列の「G1 Grouper」とか).テレビは好きではないけど,ラジオは好きです(「漫画は嫌いだけど,小説は大好き」なのと関係あるのかな?).

ダイヤブロック

昨日が「電子ブロック」の話題でしたので,今日はブロックつながりで「ダイヤブロック」(株式会社河田.今も発売中だよ)の思い出話です.

小学校に上がる前だったと思いますが,「ダイヤブロック」を買って貰いました.これが大層気に入りまして,基本的に外で遊ぶのが好きだったにも関わらず,夢中になりました.もう一つのお気に入りである「プラレール」と組み合わせて遊んだりもしました(「プラレール」の駅を「ダイヤブロック」で作ったりね).

確か「ロッジハウス」の組み立てセットから出発したと記憶しますが(その頃は,「ダイヤブロック」で作る建物としては,一番大きかったんじゃないかな?),ブロックを次々と買い足しましたので,最後は段ボール箱一杯パーツがありました.しかし,お仕着せのものを作るのは好きでないので,ロッジハウスなどは一度きりで壊し,後は自分の設計(?)で自由に建築物や土木構造物(のようなもの)を構築しました.

小学校に入ってからも低学年までは,これで結構遊んだような気がします(小学生にしては一寸「幼稚」かな?積み木の一種ですからねえ).外で泥遊び(前にも書きましたが,粘土でダム作り)も大好きでしたが,室内でブロック遊びをするのも大好きな土木・建築少年でした(高学年からは,電子機器や時刻表に関心が向かいました).

宿題は学校で済ませて,帰宅後は遊ぶだけの小学生時代でした.夜遅くまで学習塾通いに忙しい小学生を良く見かけますが,自らの少年時代に比較して気の毒に思います.でも,塾って案外楽しいのかも知れませんし,よくわからない大人が想像で適当なことを言ってはいけませんね.

そう言えば,だいぶ前に,同じ河田から出ている「ナノブロック」(「ダイヤブロック」の超ミニサイズ版)を,「面白そうだ」と言って愛妻と一緒に購入しました.でも,その後,愛妻が忙しくなったりしましたので,組み立てないでそのまんまになっていることを思い出しました.書きながら一寸気になってきました.

「電子ブロック」の思い出

先日,愛妻と待ち合わせ中に,書店で『大人の科学マガジン』というムックを偶然手にし,その付録(というか,こちらがメイン?)の「電子ブロック」に目を奪われました.懐かしくなって,思わず衝動買いしようとしましたが,ギリギリ踏み留まりました.

「電子ブロック」を小学生の頃に両親にねだって買って貰った場面をたちまち思い出しました.『大人の科学マガジン』と同じ学研が発売していました(しかし,もともとは「電子ブロック」というそのままの名前の会社が発売していた筈.学研に買収されたのかと思っていましたが,Wikipediaによれば業務提携のようです).

DPLが買って貰った頃は,ブロックの形状が異なる2つの系統がありましたが,扱い易そうなSTシリーズを選びました.STシリーズは,25回路(ST25),50回路(ST50),100回路(ST100)がありましたが(名前を忘れた別シリーズは150回路まで行けた筈です),控えめな少年DPLは,最も安価なST25を買って貰いました.

ただ,その後,スピーカーを追加購入して事実上ST50と同じにし(ST25はイヤホンだけでスピーカーが無いのだよ),更に「kパーツ」というものも追加購入して,最終的にはST100と同じにしました.

「電子ブロック」は,ご承知の方も多いと思いますが,電子部品を1つずつ収めた透明なブロックを回路図に従って専用のボードにはめ込むことにより電子回路を構成し,ラジオやアンプなどを組み立てたりするものです.専用のイヤホン,マイク,電鍵なども付属していました.

今から思えば,まったくの玩具のレベルですが,色々実験をして遊びました.付属の電鍵でモールス信号を打って通信士になったつもりににもなりしました.

AND回路,OR回路,NOT回路などの論理回路を組むことも出来たように記憶します.確か説明書には「電子ブロックを使えばステレオだってコンピュータだって組むことができる」みたいな,やや誇大なことも書いてあったような・・・(記憶違いかも知れない).

最後は飽きてしまいましたが,寿命が尽きるまでラジオとして一応実用的に使っていました.

学研は,「電子ブロック」とは逆の発想の「マイキット」というものも発売していましたが,こちらはあまり欲しいとは思いませんでした.「マイキット」の方は,複数の電子部品がボード上に最初から固定してあり,リード線でそれぞれの部品の結合パタンを変えて様々な回路を組むと言ったものでした.

色々なことを思い出してしまいましたが,電子機器にフラフラとなる癖は小学生の頃からなんだなあ~と自分を再認識した次第.

私のYMO

さて,今日は唐突にYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の話題です.

DPLは少年時代にYMOに出会い,強い衝撃を受けました.まだ,「パソコン」という言葉よりも「マイコン」という言葉が一般に使われていた時代です(だったと思います).それにマイコンはマニアのモノというイメージで,一般にコンピュータと言うと,タンスのように大きなモノで,磁気テープのリールがクルクル回っている印象が強かった時代でもあります.

周知のように,YMOはそんな時代に,コンピュータに自動演奏をさせて,それに人間の演奏を同期させるというスタイルで登場しました(今では,ミュージシャンがパソコンを使うのはごく普通の行為ですが,その頃は極めて珍しかったのですね).

タンスのように大きなコンピュータ・シンセサイザーをバックに,機械が発する信号をヘッドホンで受けながら演奏を繰り広げるYMOは,サイエンスに憧れを持つ少年DPLのハートをがっちり掴みました.実に格好良かったのであります.

最初の頃は,ヒット曲『テクノポリス』『ライディーン』や名曲『ビハインド・ザ・マスク』が収録されている如何にもテクノポップという感じのアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を夢中になって聴きました.しかし,そのうち嗜好が変わりまして,今では『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』よりも,(個別の曲は別としてアルバム全体として見た場合は)『BGM』や『テクノデリック』の方が良いと感じています.

と言うわけで,ここでDPLが選ぶYMOの曲ベストファイブをご紹介しましょう(誰もDPLの「好み」など知りたくないかも知れませんが).

1位:『アブソリュート・エゴ・ダンス』(作曲:細野晴臣)
2位:『マッド・ピエロ』(作曲:細野晴臣)
3位:『音楽の計画』(作曲:坂本龍一)
4位:『バレエ』(作曲:高橋幸宏)
5位:『京城音楽』(作曲:坂本龍一・高橋幸宏)

1位はDPLの中では「不動」なのですが,2位以下は気分で変わります.今の気分ではこの曲目ということなのですね.ちなみに,1位の曲は『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』,2位の曲は『イエロー・マジック・オーケストラ』(ファースト・アルバム),3位と4位の曲は『BGM』,5位の曲は『テクノデリック』に収録されています.

なお,YMO全盛期のメンバーのソロ活動まで含めますと,坂本龍一のソロ・シングルに収録の『ウォー・ヘッド』が圧倒的に好きです(アルバム『B2ユニット』に収録されるかと思っていたのですが,収録されませんでした.残念).ヴォコーダー・ヴォイスを最も効果的に使用している曲ではないかと思っています.一時期,こればかり繰り返し聴いていましたので,今でも頭の中で簡単に再生出来ます.

しかし,その後の『君に胸キュン』は正直勘弁して欲しかったのであります.DPLの頭の中の偶像が壊れていくような・・・.でも,松本隆の歌詞は良いですし,「胸キュン」という表現も旨いと思います(CMのキャッチコピーをそのまま使用したようですが).DPLが愛妻に初めて出会った時も「胸キュン」となりました.

乱歩の思い出

御多分に漏れず,DPLも小学生時代は乱歩やドイルにはまっていました.学校の図書室で借りたりもしましたが,両親や祖父に買っても貰いました.今日は,その乱歩に関する思い出を少々語りましょう.なお,あえて何も参照せずに,まったくの記憶に基づいて書くことにします.もし,間違いがあればご指摘ください.

乱歩の少年物は,ポプラ社の『少年探偵シリーズ』と,講談社の『少年版江戸川乱歩選集』の両方があったと思います(他にもあったのかも知れませんが,DPLは知りません).どちらも学校の図書室にありました.人気があってなかなか借りるのに苦労しました.出版点数が多かったのは前者です.後者は,「少年版」となっていますが,もともと「大人向け」の作品を「少年向け」にリライトしたものでした.

ポプラ社版のシリーズ前半は小林少年(小林少年の下の名前は何て言うんだろう?)をリーダーとする少年探偵団と怪人二十面相の対決がベースの作品群でした(最近,文庫になっているようですね).名探偵明智小五郎も毎回必ず顔を出します.『怪人二十面相』『二十面相の呪い』『怪奇四十面相』など,二十面相(四十面相)の名前がタイトルに入っている物もありますが,『妖怪博士』『電人M』『透明怪人』など,あえて二十面相物であることを伏せたタイトルの物が殆どでした(確か『大金塊』だけは二十面相が出てこなかったような記憶が).

ポプラ社版のシリーズ後半(確か『黄金仮面』以降)は,講談社版と同じように「大人向け」を「少年向け」にリライトしたものが入っていました.表紙には『少年探偵』と銘打っているのですが,「看板に偽りあり」で殆ど少年探偵団は出てきませんでした(小林少年だけは少しだけ出てくるものもあったかな?).ポプラ社版は,徐々に点数が増えていきまして,最初の頃は講談社版と重複はありませんでしたが,最終的に後述の講談社版の6作品もポプラ社版に入ったと思います(後述の『幽霊塔』は改題されていましたね).

DPLは読書に関しては少しだけマセていましたので(それ以外はぼんやりした少年でしたが),「二十面相もの」はすぐ飽きてしまいまして,もともと大人向きに書かれたポプラ社版の後半や講談社版を中心にむさぼり読みました.

ポプラ社版は『緑衣の鬼』『呪いの指紋』(原題は『悪魔の紋章』)などが印象に残っています(名作『孤島の鬼』とかは入っていなかったな.話題の映画『キャタピラー』の原作?と言われている『芋虫』も勿論入っていませんでした.ところで話は逸れますが,『芋虫』は「反戦小説ではない」と乱歩はどこかで断言していましたよ.『キャタピラー』は反戦映画のようですが).

講談社版は,点数は6点だけでしたが,強烈なイラストが描かれた箱に入っていました.そのせいかポプラ社版より講談社版の方が印象が強いのです.タイトルは全部覚えています.『蜘蛛男』『人間豹』『一寸法師』『幽鬼の塔』『幽霊塔』『三角館の恐怖』です.『人間豹』は買って貰いましたが,その他は学校から借りてきました.

しかし,「少年に読ませるのは如何なものか?」と今なら多分大多数の大人が思うような内容でした.でも,その頃は大らかと言うか,単に何も考えていなかったのか,ちゃんと学校の図書室に入っていたんですよねえ(ひょっとすると今もあるのかも知れませんが).DPLも小学生ながら,「こんなの学校にあって大丈夫か?」と心配になったくらいです(特に『一寸法師』がね.残酷なだけでなく,色々な意味で).

『蜘蛛男』と『人間豹』は,荒唐無稽な活劇物であまり面白く無かった記憶があります.前出の『一寸法師』は一寸内容を書くことが憚られますが,あまり後味の良いお話では無かったように記憶します.『三角館の恐怖』と『幽霊塔』は欧米の作品の確か翻案物で,まあ正統派ミステリの類なのでしょうけど,それほど面白くは感じなかったな(今読み返すと違った感想を持つかも知れません).一番面白かったのが『幽鬼の塔』.五重の塔(だったかな?)から首つりをするシーンが妙に印象に残っています.「不気味」な色調に彩られた作品でした.一寸,超自然的要素が入っていたかな?

『蜘蛛男』『人間豹』『一寸法師』は明智小五郎が出てきますが,『幽鬼の塔』『幽霊塔』『三角館の恐怖』には出てきません.講談社版は各巻の見開きのところに,全巻のタイトルとそれを特徴付ける絵(犯罪者の顔と凶器)が描かれているんですが,これがなかなか不気味だけど,ある意味センスが良いと思いました.

ところで,小学生ながら,乱歩のタイトル付けのセンスはなかなかのものだと感心した覚えがあります.『人間豹』にしたって,普通の感覚なら『豹人間』『豹男』とでもするところですが,『人間豹』とすることで,異様さが増しています.ポプラ社版のリライト物は,先述の『悪魔の紋章』のように原題を改題している場合が少なくなく,その原題を知るのが楽しみでもありました.

まあ,この程度の思い出です.しかし,乱歩の作品はそのうち飽きてしまいまして(特に少年物はあまりのワンパターンに早々に飽きてしまいました),祖母の書棚にあった少年向けにリライトされていない大人向けミステリに手を出すようになります.小学校の4年生か5年生くらいだったと思います.仁木悦子の『猫は知っていた』が最初ですね.そのうち,松本清張にはまってしまうのですが,これについてはまた書きましょう.

愛妻に,乱歩の思い出を聞いてみましたが,子供の頃は読んだことが無いとのことでした.どうも愛妻の少女時代は,世界の名作は勿論,特に日本の古典に夢中だったようです.今でも大事に手許に置いている子供向けの『万葉集』の解説本を見せて貰いました(文:大原富枝・挿絵:岩崎ちひろ『万葉のうた』童心社).なかなかロマン溢れる素敵な本です.愛妻らしいと言えばそうですが,ミステリ少年のDPLとは違い過ぎだな.

蕎麦の思い出

今日は,愛妻と行きつけの蕎麦屋に行きました.蕎麦を自家栽培し,石臼で自家製粉している本格的な店です.

二人とも大概,最初に冷たいお蕎麦を注文し,それから暖かいお蕎麦をもう一度頼みます.要するに二人前食べます(一人前の量が少ない店ではありません.むしろ多い方だと思います).繰り返しますが,これは愛妻も同じ.それに加えてお握りも一人前ずつ食べます(ここのお握りは兎に角巨大で,昆布,梅干,鰹節,鮭などがすべて入っています).

蕎麦に関しては忘れられない思い出があります.独身時代に愛妻と最初に食事をした場所は蕎麦屋でした(今日行った所とは別ですが).DPLの友人と愛妻の友人も伴って男女四人で行きました.友人二人は一杯目のお蕎麦で十分満腹していたようですが(一人前の量は十分ありました),皆が食べ終わった頃,愛妻が感動的な一言を発しました.

「もう一つ,注文しても良いですか?」

これが,体格の良い女性が発した言葉であれば特に感動しなかったのですが,美人でスラッとした体型の若い女性(独身の愛妻.ちなみに容貌・体型は今も変わりません)が発した言葉だっただけに,DPLの心は激しく揺さぶられました.DPLも慌てて,次の言葉を発しました.

「ボクも同じモノ頼みます!」

DPLは良く食べる美女が大好きです.

ダムの思い出

DPLは小学生時代,ダムが大好きでした.特に,ダムを建設するプロセスや,ダム建設の前後での景観変化に興味がありました.

通っていた小学校の図書室には,ダムの図鑑があって,それを毎日のように引っ張りだして眺めていました.国内や世界の色々なダムが紹介されていました.黒部ダム,田子倉ダム,奥只見ダム,御母衣ダム,・・・,色々思い出します.

その図鑑の中では,まったくダムの無い状態から,完成に至るまでの工事のプロセスも詳細に解説されていました.事例は,確か奈良県の坂本ダムだったと思います(アーチ式です).普通の谷間が,湖に変わる様は少年DPLを興奮させました.

ある程度,ダムの堤体が出来てきますと,仮排水を止めて貯水を始めるのですね.作りかけの堤体とダム湖の組合せが,これまた少年DPLを興奮させたのです.

ところで,ダムに興味を持つようになったきっかけは,岐阜県にある御母衣ダムとの出会いです(ロックフィルダムとしては,我が国最大級).もっと小さい頃,父親の運転する車で高山から富山に抜けたことがあるのですが,その時,御母衣ダムに遭遇したことが強く記憶に残っているのですね(その前後は忘れてしまっているのに).

ダム湖に沿った国道は,当時は幅員が非常に狭く,とても怖かった記憶があります(いわゆる「酷道」の類になるのでしょうか?途中,未舗装区間もあったような記憶が.今は知りませんが).御母衣ダムに遭遇したのは夕暮れ時で,ダム湖が不気味な沈黙を保ちつつ広がっていたことが今でも頭にこびり付いています.

とても広く感じたのですが,それは,子供だったからかも知れません.とにかく,DPLの記憶の中では飛び抜けて広い湖という印象です(大人になってからは行ったことがありません).

この旅行から戻ってから,DPLはどうもダムに興味を持つようになったようです.実に怖かったのだけれども(「二度と行きたくない」と思ったのだけれど),それ故にその正体を見極めようとしたのでしょう.「怖い物見たさ」に近いかも知れません.

それからというもの,冒頭に書きましたように,ダムの図鑑をむさぼるようになるのです.

近所の空き地に,水が流れているところがあり,その水を堰き止めて遊んだりもしました.粘土や砂利で堤体のようなものをこしらえて,ダムを建設しているつもりでした.図鑑で見たように,重力式,アーチ式,など色々形を真似てみたりしました.

堤体を作る際は,仮排水路まで作る(さすがに仮排水路用のトンネルまでは作りませんでしたが)念の入れようです.完成しますと,小さな水たまりが出来ますが,これをダム湖に見立てて悦に入っていました.実に楽しかったな.

この頃は,漠然と土木技師を夢見ていたようですが,何時の間にかそういった進路は頭から消えました.しかし,産業考古学に興味を持ち始めましたのは,このような少年時代の体験が影響しているのかも知れません.

そう言えば,御母衣ダムのある庄川には小牧ダムというダムもあって,そのダム湖のほとりに大牧温泉という有名な温泉がありますね(もともとはダム湖の底に沈んだ場所にあったそうですが).船で渡らないと行くことが出来ない温泉です.ここに一度,愛妻と行きたいなあと思っています.

指輪物語

今日は,DPLの「結婚指輪」の話をしましょう.

愛妻のものと並べますと下のような感じです.

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勿論,右がDPLのものですが,大きいでしょう?

下の写真のように愛妻の指輪がすっぽり収まります.

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これらの指輪は,自分たちでデザインしました(作ったのは指輪屋さんですが).

でも,残念ながらこの指輪,今は眺めるだけです.「どうして?」って?以前の記事にも書いたのですが,DPLは結婚直前には,体重が120kgを超えており,それに対応して指も太かったのです.

しかし,今では70kg前後ですから,それに対応して指もすっかり細くなりました.親指を入れてみても大分余裕があります.薬指だけでは完全にブカブカで,小指だって同時に入ってしまいます(下の写真).

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ダイエットに成功した人が,ズボンの片方に両方の足を入れているような写真です.

先ほど書きましたように,今では,この「結婚指輪」は眺めるだけの代物ですが,これを眺めていますと(定期的に眺めたくなります),「よくぞあんなに不細工で,デブの男と愛妻が結婚してくれたなあ」とつくづく思います.

結婚当初,「これは夢ではないのか?」「明日起きると夢がさめているのではないか?」と毎日のように思っていたことも思い出されます.この「結婚指輪」は愛妻との「夢」のような結婚を象徴する,私にとって最大の思い出の品の一つなのでありますね.

ところで,今はこの指輪の代わりに,立体ハートをあしらった指輪を薬指に着けています.これもDPLのデザインで,本当は愛妻とおそろいにする予定でしたが,愛妻が難色を示すので,DPLだけが着けています.

私の清張体験

今日のお話は,DPLが以前に,このブログ以外の場所に別名義で書いた文章を少し修正したものです(要するに「使い回し」だな・・・).

---ここから「使い回し」---

DPLは,小学生(確か5年生くらい)の頃からの松本清張ファンです.少年向けのミステリ(ポプラ社版の江戸川乱歩『少年探偵シリーズ』など)にいささか飽きてしまった少年DPLは,祖母の書棚から仁木悦子『猫は知っていた』を借りて読み,大人向けミステリの面白さに目覚め,さらに味をしめて,続けて祖母の書棚の清張の『黄色い風土』『眼の壁』に手を出し,ついに少年物に戻ることはできなくなりました.

しかし,小学生のDPLにとっての清張の小説は,大人の暗い世界を垣間見せてくれる存在であり,心が凍り付くような怖さを感じた記憶があります(怪人が出てくるわけでも残虐なシーンがあるわけでもないのですが,とにかく怖かった).

祖母の書棚への依存から独立し,自分で清張の本を買い始めたのは(と言ってもお小遣いでですが),中学生になってからです.最初に買ったのが『点と線』.時刻表大好き中学生には堪りません.これでますます清張ファンになりました(一寸,残念なアリバイ・トリックもありましたが・・・).

さらに,中学1年生の時の大晦日から正月にかけて,清張の文庫本を大量に買い込み,何もしないでひたすら『砂の器』『蒼ざめた礼服』『影の地帯』『蒼い描点』『黒い画集』 その他(もう何冊か一緒に読んだような気がします)をコタツで一気読みしました(途中,仮眠を挟みながら).しかし,読後は清張ワールドの毒に当たって,さすがに気分が悪くなりました(そもそも読後感が爽やかでないのが清張文学の特徴ですね).

なお,大人になってから,DPLが小学生時代を過ごした自治体の広報紙に,巡回図書館の前で箱入りの文藝春秋社版の松本清張全集の1冊を大事そうに抱える小学生のDPLの写真が掲載されているのを愛妻が発見しました.『霧の旗/砂漠の塩』を5年生の時に巡回図書館から借り出した記憶があるので,たぶんそれでしょう.

でも,どろどろとした復讐譚の『霧の旗』を読む小学生なんて嫌ですね.

---「使い回し」はここまで---

ところで,7月1日付けの記事で,DPLは「1960年前後の鉄道事情に関心がある」といったことを書きました.実は,その関心の源泉は松本清張にあるような気がしています.

例えば,『眼の壁』では,東京駅の一・二等待合室が犯罪の舞台になりますし,『黄色い風土』では,伊豆に向かう準急「いでゆ」の車中で新婚旅行のカップル(?)を見かけることが事件の発端になります.『点と線』の「東京駅4分間の空白」のトリックは,あまりにも有名で,これは当時の特急「あさかぜ」を使ったものです.

「いでゆ」も「あさかぜ」も,記事の中で紹介しました1961年10月現在の東京駅発着列車に勿論入っています(小説の舞台設定は1961年より前ですが,それほど変わらないと思います.61年10月のダイヤで「4分間のトリック」が可能かは不明ですが).

そういうわけで,7月1日の記事を書いた後,清張体験を思い出した次第です(「使い回し」の言い訳).

恩師からのメール

昨日,院生時代の恩師のことを少し書きました.そこで恩師ネタを引き続き書きます.

院生時代の恩師は直接の指導教授のA先生(昨日の記事の中の「教授」.現在は名誉教授)の他に,その後A先生の後を継いで教授になられたB先生(昨日の記事の「助教授」.DPLをいろいろ海外調査に連れ出して下さった有り難い先生です.現在は名誉教授),当時隣の研究室の助教授だったC先生(昨日の記事の「隣の研究室の助教授」.一昨日の記事の中の学会で会った「恩師」がそうです.現在は名誉教授),それから,研究室のある棟に毎日卓球をしに来られ,時々大学院生にお酒を振る舞っておられたX先生(A先生の前任の教授.現在は名誉教授)などが主な顔ぶれです.隣の研究室の教授だった謹厳実直なY先生(現在:名誉教授)にも学恩があります.助手のZ先生は大変温厚なお人柄で(教授のA先生よりも年上でした),先生がその場におられるだけで場が和みました.

さて,今日の話は,X先生です.もう80歳を越えておられるのに,元気一杯で時々Eメールを下さいます.しかも,半端ではない分量のWordファイルを添付してこられます.つい先日いただいたメールの添付ファイルは,主にユーゴスラヴィアの旅行記で32422文字でした.その1週間ほど前にいただいたメールの添付ファイルは主に英国の旅行記で18687文字でした.聞けば,DPLの他にもお弟子さん筋を中心にWordファイル付Eメールを送っておられるようです.旅行記だけでなく,ご専門分野に関する学術的お話(殆ど論文!)なども多く,DPLはご高齢の筈のX先生のバイタリティーに脱帽しています(どうも書きたいことが泉のように湧いてこられるようです).

なかなか読むのは大変なのですが,しばらくメールが途絶えてしまうこともあり,そうなるとDPLは気になって仕方がありません(健康を害されたのではないか?とか.或いはDPLは読者として不足と思われたのかな?とか).しかし,忘れた頃に,ドカンと届きます.嬉しくもあり,なかなか複雑な気持ちになります.DPLは思いますが,X先生は是非ブログを始められるべきですね.まさにブロガー向きです.

ところで,X先生が一方的に大量の文書を送りつけるみたいな書き方をしましたが,実はDPLは,ブログ開設にあたって,ちゃっかりX先生に「ブログ読んでください!」とメールを出したり,論文の草稿を送ってコメントをいただいたりしていますので,「お互い様」なのかも知れません(大先生に対しまして「お互い様」という言い方も一寸失礼ですね).

ここで,DPLはまた考えます.自分が80歳を越えるような年齢になったとき,卒業生にX先生と同じ事をするかなあ?と.多分,X先生のように学問的話題を書き記して送ることは無いと思いますが,「ブログ読め!」とは言いそうだな….

さて,今日も大学院の夜間授業で帰宅が22時を回ってしまいました.これから愛妻の手料理で遅い夕食です.最近,DPLは22時より早く帰ってきませんね.愛妻は文句一つ言わないで待っていてくれます(実は22時なんて序の口で,明け方に帰ってきても,ちゃんと待っていてくれます).当たり前なんて思うとバチが当たるのでしょうね.

院生時代

今日は,大学近所の中華料理店でDPLの所属学部の大学院生と教員との懇親会でした.それで,今夜はハート庵に帰り着くのが少し遅くなりましたが,帰宅後,例によって愛妻と紅茶を飲みながら(愛妻手作りのクッキーなどもつまみながら)お喋りしていましたら,うっかり日付が変わってしまいました.しかし,10月26日付けの記事が無いのも後々困るので,少々日付を改竄します(と言っても2時間ほど早い時間に投稿したことにするだけだよ).

DPLの前任校は国立の理系学部でしたので,大学院教育がそれなりに重視されており,DPLも博士後期課程の院生を受け持っていました(院生の研究室とDPLの研究室はドア1つで行き来ができるようになっていました).しかし,現在の勤務先である私立の文系学部に移籍してからは,学部教育の比重が圧倒的に高まり,院生との日常的つき合いが薄くなってしまいました(DPL直属の院生がただ今ゼロということもあります.毎週2コマの院の授業は持っていますが).

従いまして,今日のような行事にDPLが参加することは珍しく,久しぶりに楽しい時間を過ごさせて貰いました(研究科長のお誘いに乗って良かったと思います).学部生とは異なって,院生はやはり大人です(社会人院生が混じっていますし).ゼミの学部生とワイワイやるのも良いのですが(しかし,うちのゼミ生は元気が良すぎる),たまには大学院生と落ち着いて喋るのも良いですね.

と書いたところで,DPL自身の院生時代を思い出しました.DPLの所属していた研究室は,所謂小講座制をとっており,教員も教授,助教授(現在の准教授),助手(現在の助教)のフルセットでした.毎週,金曜日の午後はずっと演習で,教授以下3人の教員や博士後期課程の先輩院生の前で,緊張の研究報告を行いました.そして,演習終了後の夕方から,演習室で酒宴が始まるのが常でした(ほぼ毎週).もちろん,3人の教員(隣の研究室の助教授も混じり,教員は4人になることも)をはじめとする研究室のメンバー勢揃いでの宴会です.

宴会は深夜に至ることが多く(日付が変わることもザラ.そのまま自分の研究室に泊まっていた先生もいました),研究の話は勿論のこと,話題は森羅万象に及びました.話の輪の中心はやはり教授であり,時にお説教が飛んでくることもありましたが,それも今では懐かしい思い出です(DPLの指導教授は,酒に酔うとクドクドと説教する癖があり,当時は正直閉口しないでもありませんでしたが,今ではただただ懐かしく思います).ある意味,大変贅沢な時間であったと言えるかも知れません.勿論,正規の授業で学んだことも少なくないのですが,それ以上に,この毎週の宴会から,DPLは研究者としての心構えを学んだような気がします.

ところで,自分は勤務先の学生さん達に,そういった場を提供できているのか(必ずしも宴会でなくても良いとは思うのですが),少し反省してみましたが,当時のDPLの師匠の真似はしようと思ってもなかなか出来るものでは無いということを実感しています(教授の命令で帰宅できない助教授以下の先生も大変だったと思いますが・・・.パワハラなどの言葉が無かった時代).

院生時代につきましては,書きたい思い出が一杯ありますが,それはまた機会を見て少しずつ紹介することにしましょう.

プロポーズの言葉

既婚者ならば誰でもプロポーズの言葉を覚えておられることでしょう(した方もされた方も.ただし,DPLは見合い結婚のことはわかりません.見合いの場合もプロポーズするんですか?).

さて,今日はDPLのプロポーズ話をいたしましょう.もちろん,愛妻にプロポーズしたときの話です.なお,以前の記事と同様に独身時代の愛妻を仮にYさんと呼ぶことにしましょう.

ある日の夕方のことです.DPLはYさんとお客で大混雑する喫茶店におりました.狭い店で,隣のテーブルがすぐそばまで迫っており,着席するにも机をずらさなければならない程の狭さでした.二人分の席もようやく確保したという感じでした.

Yさんは友人と軽くお茶でもというノリでしたが,DPLの方は「今日こそYさんにプロポーズだ!」と胸に闘志を秘めながら臨んだ席でした.しばらく他愛のない話でそれなりに表面的には盛り上がっていたように記憶します.しかし,なかなか告白のタイミングがつかめず,DPLは内心やや焦っていました.そうこうするうちに,彼女の帰宅の時間が迫ってきました.

彼女が辞去の言葉を発しようとしたまさにその時,DPLは意を決して,プロポーズの言葉を発しました(愛妻が後から申しますには,DPLは本当に唐突に発したそうです).

「Yさん,ボクと結婚してください」

極めて人口密度が高くなっている店内は,一瞬,水をうったように静まりかえりました(DPLは声量の制御が効かなくなっており,店中響き渡るような大声だったそうです).店内にいた人々は,次にYさんがどのような反応をするのかを興味深々といった面持ちで見守っています(DPLは回りが見えておりませんでしたので記憶にありません).

Yさんは驚きから沈黙したままです.困ったDPLは,急に弱気になり,次のように前言を修正しました.

「すみません.つきあっていただくだけでいいんです」

それでも,Yさんはまだ沈黙したままです.さらに困ったDPLは,ますます弱気になり,次のような驚くべき(?)言葉を発しました.

「では,ボクと友達になってください」

当時のDPLとYさんは友人だったはずですが・・・.DPLは何を血迷ったのでしょう.Yさんはあきれてしまったのか,やはり沈黙したままです.さらに追い詰められたDPLは,またまた驚くべきことを言い始めました.

「それでは,知人ということに・・・」

オイオイという感じです(知人でもないのに二人で喫茶店ですか???).これでは,プロポーズ前よりも後退しているではありませんか.

この後,どうなったかは,そのうちここで書きます(乞うご期待).

下北半島青春紀行(その4:完結編)

(昨日からの続き)DPLは役場で紹介していただいたAさんを訪ね,ご自宅の書斎で面談しました.お話の中でこの鉄道が大間鉄道と呼ばれていることを初めて知りました.大間鉄道は,戦時中に建設が進められた路線であり,この辺りが要塞地帯であったため,史料が乏しいと言った話も伺いました.色々なお話を伺い,結構な時間,お邪魔してしまったような気がします(今から思うと,自分のあまりの図々しさに,恥ずかしくて顔が熱くなります).Aさんは,後日,DPL宛てに関連資料のコピーを郵送することまで約束して下さいました(実際に,旅から戻りますと分厚い封書が送られてきました).

おまけに,帰り際,Aさんの娘さんとそのご友人の方々が,これから大畑方面まで車で行くので,同乗すればよいとまで言って下さいました.DPLはお言葉に甘えて,娘さんのご友人が運転する車に同乗させていただき,しかも途中で遺構撮影のために何度も車を止めていただきました.そのため,道草をし過ぎまして,危うく大畑線の最終に乗り損ねるところでしたが,その際も,娘さんのご友人の一人が「乗り遅れたら,自分の家に泊まればいいよ」と有り難い申し出をして下さいました.DPLがあまりに情けない顔をしていたからかも知れません.しかし,何とかぎりぎり最終列車に間に合いました.非常に良い人たちでしたので(DPLより若干上の世代の青年男女でした),「もう少し,この人たちと一緒に居たかったな」という思いも正直あり,列車に間に合ってしまって,何か複雑な気持ちでした.

旅先で出会った人々は,名前も知らずに別れてしまう場合が少なくありません(今回の旅で知り合った人々も,Aさん以外はお名前を存じ上げません).多分,二度と会うことはないでしょうし,万が一の偶然で遭遇したとしても多分気がつかないでしょう(あんなにお世話になった営林署や役場の方々,Aさん父娘,娘さんのご友人の方々のお顔も曖昧なイメージとして頭に残っているだけです).「しらゆき」の車中で出会った名前も知らない女性は,しばらくDPLを感傷的にしましたが,記憶の中の彼女の顔にも霞がかかってしまって今はうまく思い出せません.

ところで,年を重ねてきますと,DPLにも記憶の中でしか会えなくなってしまった人(それも,曖昧なイメージだけになってしまった人が)が増えてきました.死別した人もいますし,連絡がとれなくなってしまった人,或いは今回の旅のように,旅先で一時的に出会った人も,それに該当します.時が経ちますと,これらの人々の顔が否応なく霞んできます(写真が手許にある場合は,時々,その助けを借りて記憶を更新することもありますが).老人は昔のことは良く覚えていると言いますが,DPLが老人になったときに果たしてそんなに昔のことを思い出せるのか自信がありません.

DPLが最も恐れていることは,愛妻が記憶の中だけの人になってしまうことです.このことは想像するだけでも胸が痛くなります.しかし,未来は誰にもわかりません.DPLは,もしそうなったとしても(愛妻がDPLよりも長生きすることを祈っていますが,どちらが先立つにせよ,別れ自体は不可避です),愛妻の顔や彼女との生活が,写真の助けを借りなくとも頭の中で鮮明なイメージを結ぶように,愛妻との一日一日を大切に生きていこうと思っています.

下北半島青春紀行(その3)

(昨日からの続き)DPLは野辺地で一夜の宿である夜行列車から降りると,大湊線に乗車し,さらに下北(或いは大湊だったかな?)で大畑線に乗り換えて,終着駅の大畑に辿りつきました.この大畑線は当時は国鉄でしたが,赤字のため廃止対象路線となり,下北交通に継承されました.しかし,結局は廃線となり,現在では大畑は鉄道から隔絶された町となっています.

実は,その何日か前にも大畑に来ていました(周遊券ですので何度でも期限内なら来ることができます).その時は,大畑駅近くにある営林署を訪ね,下北半島一帯の森林鉄道に関する情報を教えていただき,遺構探索に山道を歩き回りました(藪コキをしなければならないので,夏なのに合羽を着て汗だくで歩きました).営林署の職員の方々は,アポなし訪問のDPLに嫌な顔を見せることなく,親切に路線網を書いた手書きの地図を作ってくれました.下北半島の森林鉄道にDPLが興味を持ったのも,水上勉の「飢餓海峡」がきっかけですが,これについては今回は省略しましょう.

さて,DPLは地形図片手に,大畑駅の周辺を歩き回りました.しかし,そこでは幻の軍事鉄道の痕跡を見つけることはできませんでした(今はネット上で関連情報がとれますし,主な未成線の現況を記した書籍も比較的容易に入手できます.しかし,当時はそのような便利なものがありませんでしたので,現地で試行錯誤です).大畑駅周辺での探索はひとまず諦めて,DPLは先に終着点の大間まで行ってみることにし,大畑から大間行きの路線バスに乗車しました.

バスは海沿いの道を走りましたが,そのうち,鉄道用と見られるアーチ橋が次々と視界に入ってきました.坑口を塞がれたトンネルも随所に見られました.アーチ橋は,ところどころ破壊されていましたが,水上が記述していた軍事鉄道の遺構にまず間違いないと思われました.バスを途中下車することも考えましたが,「帰りでもよいかな」と思い直し,終点の大間までひとまず行ってみることにしました.

しかし,大間の町中に入ってしまいますと,もう未成線の遺構は見あたりません.途方に暮れたDPLは,とりあえず役場を訪問しました.これもアポ無しです(今はこんなことはしません).「大間に来る予定だった軍事鉄道について教えてください」といきなり尋ねる珍客に,役場の人はさぞかし面食らったと思いますが,親切にも「ここではわかりませんが,郷土史に詳しい方に心当たりがあります」と言って,すぐに一人の人物(Aさんとしましょう)に電話をかけて,アポまでとりつけて下さいました.(明日に続く)

下北半島青春紀行(その2)

(昨日からの続き)その頃のDPLの旅は,基本的に「乗り鉄」と言われるもので,鉄道それ自体に乗ることが目的の旅です.目的地はありません.今回の旅の中でも,最初の数日間は,まさにこの「乗り鉄」をしていました.

この「乗り鉄」的旅は,本当に単調で,改めて書くようなことは何もありません(書くとすれば,何時何分に何駅から何線の何列車に乗って云々という,興味のない人には退屈な記述が続くと思います).とにかく,青森,秋田,岩手,山形,宮城,福島の各県の鉄道を乗り回していました.夜は,昨日も書いたような「八甲田」か「十和田」の車中でした.完全な車中泊ならまだ楽なのですが,真夜中に一旦起きて,上りから下りに乗り換えなければなりません(寝過ごすと,周遊券のエリアからはみ出してしまい,エライ目にあいます).

しかし,DPLには,今回の旅には少しだけ目的地がありました.DPLの好きな作家の一人に水上勉がいますが,当時のDPLは,水上の「北国の女の物語」を読んでいました.その中に次のような気になるパラグラフがあったのです.

「久しぶりにみる津軽海峡は,秋深いせいもあって,波が荒く,縄のようにのびる岸壁の道へ,しぶきをあげていたが,沖子はこの道を,むかし,伊太郎を背負って歩いたことを思いだした.まだ,その頃は,バスは通っていなかった.波のおそいかかるようなおそろしい道を歩いたものだ.戦争中に,陸軍が,大畑から,大間へ通じる鉄道をつくろうとして,路線工事をはじめ,途中で終戦になったため,この鉄道は敷かれないままに放置された.いま,その工事の中途で投げ出された路線が,山の裾をまがりくねってつづいているけれども,そこはバスも通れない草茫々の荒れた土地になり果ててしまっている.」(講談社文庫版,下巻p.183)

DPLは水上の記述するこの幻の軍事鉄道の遺構を,今回の旅の中でどうしても確認したかったのです.(明日に続く)

下北半島青春紀行(その1)

この夏,ふとしたはずみで,青春時代に下北半島を巡った思い出が蘇りました.以下それを綴ってみることにしましょう.なお,DPLは旅の記録をほとんどつけてこなかったので,不確かな記憶に基づきます.記述がやけに簡単なのはそのためです.

まだ十代だったDPLは,学校の夏休みに「東北ワイド周遊券」を1枚持って東北を旅しました.数日間に及ぶ初めての本格的な一人旅でした.まずは,北前船のルートに沿って日本海側を北上することにし,金沢から青森行きのディーゼル急行「しらゆき」(もちろん,今は存在しません.このときも廃止間際ではなかったでしょうか)に乗り継ぎました.

途中,高岡からOL風の綺麗な若い女性が乗車し,ボックス席のDPLの正面に座りました.しばらくすると彼女はDPLに話しかけてきました(多分,退屈しのぎだったのでしょう).見知らぬ年上の女性に声をかけられ,少年DPLは最初当惑しました.しかし段々と話が弾み,意外に楽しい時間を過ごすことになりました(話の内容はまったく覚えていませんが,楽しかったという感情の記憶はあります).彼女は埼玉の人で,長岡で下車してしまいました.名残惜しく,一人残されたDPLは途端に虚脱感を覚えました.長岡から先の相客は,汚い風体の中年のおっさんで,天国から地獄の思いでした.長岡から青森までの数時間は苦痛なばかりでした.

青森到着後間もなく,再び上野行きの夜行列車に乗り込みました(「八甲田」だったかな).その晩の宿代わりです.周遊券のエリア内の途中駅まで乗車し,深夜に下り夜行を待って,再び青森まで戻り一夜を過ごすというプランでした.入浴と着替えは,翌日浅虫駅近くの浅虫温泉の共同浴場を使用しました.実はこのコースをこれから毎日繰り返すことになります(大変な強行軍ですが,若いからできたことでしょう).

ちょっと,話が長くなりそうなので,分割しましょう.それでは続きはまた明日.
プロフィールなど

Author:プリティラヴ博士(DPL)
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いまも愛妻に心のトキメキを覚えるハート庵主人・プリティラヴ博士(DPL)が,皆さまに「愛」の御福分けをいたします.愛妻家および愛妻家ファン必読!過去記事の一覧はこっちだよ.
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DPLのプロフィール:愛妻家,甘党男子,散歩家,鉄道青年,活字中毒者,長髪ピンク野郎,英国かぶれ,農学博士,自称経済学者,大学教授(もと経済学部長),馬術部長(残念ながら乗馬経験はありませんが,象にはインドで乗りました)など.主に大阪周辺をチョロチョロしています.

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